前回の続き・・・

前回の記事について、まなか&あすみパパさんから
書き込みをいただきましたように、
まさに1966年はロック史上に残る名盤が続々登場した年。
言い換えればポピュラー音楽が、シングル主体からアルバム主体へと、
移り変わって行った年と、一般に認識されていますね。
まあ現実にはまだまだLPレコードは高価なもので、
実際に買えるのは限られた人達だったのでしょうが。
でもこの年を境にして、67年〜68年あたりで、
音楽の在り方が一変してしまったのは、間違いないでしょう。


先日Dobbさんのお店に行った時、新聞記者をされているという24歳の方と
たまたま同席する機会があり、その方もロックが大好きだそうで、
大いに話が盛り上がりました。
まあ24歳と言えば、僕とは倍以上の年齢差がある訳で(汗)
当時のリアルタイムの音楽状況を色々とお話ししたところ、
かなり新鮮な驚きを感じられていた様子でした。


例えばブラック・ミュージック。
今ではごく普通に聴かれ、幅広いファン層を獲得している黒人音楽も、
60年代に日本でヒットしたのは、ごく一部の楽曲に過ぎませんでした。
文句なしの大ヒットといえば、レイ・チャールズの「愛さずにはいられない」と
ダイアナ・ロスシュープリームスの「ラブ・チャイルド」が思い浮かぶくらい。
全米で12曲のNo.1ヒットを持つシュープリームスも、
他の曲は日本では殆ど不発でしたし、もう一組のヒット・メーカーである
テンプテーションズも、「マイ・ガール」が本国より3年遅れて
少しだけヒットした程度でした。
スティービー・ワンダーは73年の「迷信」あたりから徐々にといった感じで、
マービン・ゲイはあの「ホワッツ・ゴーイン・オン」ですらヒットせず、
ジャクソン5もヒットは「ABC」のみといった印象です。
オーティス・レディングは東京ではかなりヒットしていたようですが、
こちら北九州・福岡地区ではパッとしませんでした。
中には、スライとファミリー・ストーンの「エブリデイ・ピープル」(RKB4位)、
ファウンデーションズの「恋の乾草」(KBC1位)、
R.B.グリーヴズの「浮気なマリア」(KBC2位)、
エドウィン・スターの「黒い戦争」(RKB2位)、
スモーキー・ロビンソンとミラクルズの「涙のクラウン」(RKB2位)など、
意外に健闘した曲もあるにはありましたが。
(KBCは「今週のポピュラー・ベストテン」
 RKBは「ペプシ・ポップス・タイム」での最高位です)
まあブラック・ミュージックが本当に市民権を得たと言えるのは、
1980年代に入ってから、おそらくマイケル・ジャクソン
「スリラー」以降と言って良いでしょうね。


それから先の新聞記者の方と、更にDobbさんも加わって、
「アート・ロック」の話になったのですが、
Dobbさん曰く、アート・ロックといえば
例えばロキシー・ミュージックに代表されるような、
ビジュアル面でのアートをイメージさせるアーティストが
挙げられるのではないかという事でした。
なるほど確かに今ではそういった解釈が一般的になって来ているようで、
グラム・ロックプログレとかなりかぶる部分があるみたいですね。
ただ当時の状況を想い出してみると、アート・ロックと聞いて
まず思い浮かぶのは「キープ・ミー・ハンギング・オン」のヴァニラ・ファッジで、
続いてクリーム、ジミ・ヘンドリックス、ディープ・パープル、
そしてやや遅れてレッド・ツェッペリンといったところです。
ヴァニラ・ファッジと言えば、当時深夜に放映されていたテレビ番組
「JUNサウンズ・イン」によく登場しており、オルガンを弾きながら歌う
ヒゲのオッサン(マーク・スタイン)の姿が、強く印象に残っています。
同時期のピンク・フロイドには、アート・ロックという言葉は使われず、
70年代以降はアート・ロックという言葉自体が消滅し、
「ニュー・ロック」「ハード・ロック」といった呼び方に変わって行きました。
アート・ロック=芸術性の高いロックという事で、
また当時のサイケな色合いを持ったジャケットとも、
イメージ的にリンクするものがあるようです。


実は前述のアート・ロックと呼ばれたアーティスト達は、
いずれも当時、日本グラモフォンから発売されていた人達ばかりです。
つまり「アート・ロック」とは、日本グラモフォンが自社アーティストを売る為の
キャッチ・コピーだったのではないか?と思います。
同様の意味合いで世界中に通じる言葉であるのかは、疑問な気がします。
ちょうど東芝音楽工業が、アソシエイションやクラシックス・フォーを売る為に
当時「ソフト・ロック」という言葉を用い、
それが90年代以降再び、頻繁に使われるようになったものの、
海外で使われるときの意味合いとは、全く違ったものとなっているように。
1970年には、日本で新たにワーナー・ブラザーズ・パイオニア株式会社が発足。
翌71年からヴァニラ・ファッジ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル等、
そちらから発売されて行く流れとなるため、この時点でアート・ロックという言葉は
使われなくなって行ったものと思われます。


またプログレッシブ・ロックという言葉が使われ始めたのもこの頃ですが、
この言葉の解釈も当初はかなり曖昧で、「プログレ」と呼ばれて
一つのジャンルとして定着するのは、まだかなり後の事だったと思います。
1970年から民放ラジオ局が選定する「全国ラジオ音楽賞」がスタートしますが、
そのポピュラー部門に当初「モースト・プログレッシブ・アーティスト賞」
というものがあり、第一回の受賞アーティストは
なんとクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングでした。
彼等の音楽性は今で言うプログレとは真逆の印象を受けますが、
文字どおり「最も進歩的なアーティスト」という意味合いでは
あながち的外れな選定ではないとも言えます。
米英の人気グループに所属していた彼等が、自らの音楽を追究するために脱退し、
新たに結成したグループというその在り方も含めて。


そう言えば時代は遡って、戦後日本に洋楽が入って来るようになってから、
ラジオで人気を集めていた番組の中に、
「S盤アワー」「L盤アワー」「P盤アワー」といった、
各レコード会社による自社楽曲のPR用の番組がありましたが、
僕がラジオを聴くようになった頃までは、まだ辛うじてその名残がありました。
70年代以降そのような番組は激減して行きますが、
唯一「東芝ヒット・パレード」は、かなり長い間続いていました。
当時は前田武彦さんがDJを担当、テレビのイメージとはかなり違って、
非常にセンスの良い前田さんの音楽観が随所にちりばめられており、
フィフス・ディメンション、レターメン、キャンド・ヒート、
クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル等の魅力は、
この番組を通じて知ることとなります。