アーティストの死

はずみで始めたようなブログで、まだまだ殺風景そのものでしょうが、
徐々に手を加えて行きたいと思ってます。
でもそこはパソコン関係自体、お世辞にも得意とは言えない僕のこと、
まあ気長〜に見守っていただければ幸いです。(笑)
早速皆さんから書き込みや激励の言葉をいただき、本当にありがとうございます!
そんな中で、まなか&あすみパパさんから、今日7月3日は
 元ローリング・ストーンズブライアン・ジョーンズ(1969年没)
 ドアーズのジム・モリソン(1971年没)
の二人の命日であるとの書き込みをいただきました。
僕はうっかり気付かなかったのですが、この二人の偉大なミュージシャンが、
二年違いの同じ日に、しかも同じ27歳で世を去ったとは、
まさに運命としか言いようが無いですね。
今年になって、日本では忌野清志郎さん、アメリカではマイケル・ジャクソンと、
多くの人に大きな影響を与えたミュージシャンの訃報が相次ぎ、
あらためて「アーティストの死」というものについて
考えている方は、とても多いと思います。


マイケル・ジャクソンについて少し書かせていただくと、
彼が亡くなる数日前、僕は店のマイケル・ジャクソンのコーナーを
何気なく見ていました。
そう言えば「スリラー」のイントロのSEがカットされた
シングル・ヴァージョンの入ったベスト盤はどれだったっけ?
といった程度の動機でした。
その時に以前は結構豊富にあったマイケルの在庫が
思いの外薄くなっていることに気付きました。
「スリラー」もベスト盤も切れてるし!
言うまでもなく、中古店の在庫の増減は、
そのままその時のアーティストの人気度・注目度に直結します。
そして25日の夜に、仕事帰りに点けたラジオから、
「ウイ・アー・ザ・ワールド」が流れて来ました。
1985年の話題についての番組で、その年のヒット曲として紹介されたもので、
その時点ではまだマイケルは存命中であったことになります。
その翌朝またラジオを点けたところ、
またしても「ウイ・アー・ザ・ワールド」が流れました。
二度続けてかかるとは珍しいな?と思っていると、
その後に流れてきた知らせは、マイケルの訃報という
思いもかけないものでした。


マイケル・ジャクソンが所属した兄弟グループ、ジャクソン・ファイブ
デビュー曲「帰ってほしいの」が全米チャートに登場したのが69年の暮れ、
翌年にはB.J.トーマスの「雨にぬれても」に続き、
70年代に入って2曲目の全米No.1ソングとなりました。
そしてその後彼等は、デビュー以来4曲連続No.1という
新記録を打ち立てました。
 *帰ってほしいの (1/31 1週)
 *ABC (4/25〜5/2 2週)
 *小さな経験 (6/27〜7/4 2週)
 *アイル・ビー・ゼア (10/17〜11/14 5週)
「帰ってほしいの」や「アイル・ビー・ゼア」等、
今でもよく流れるスタンダード・ナンバーなので、
日本でも大ヒットしたと思ってる方が多いと思いますが、
当時はまだブラック・ミュージックが日本には充分に浸透しておらず、
ダイアナ・ロスシュープリームステンプテーションズ
マービン・ゲイスティービー・ワンダーといったヒットメーカーですら、
日本でのヒットらしいヒットは、まだ各々1〜2曲といった状況でした。
ジャクソン・ファイブの曲で、何とか日本のチャートで上位に進出できたのは
唯一「ABC」のみで、当時各番組でベスト3くらいには入っていました。
そしてその曲を聴きながら思ったのは、
「ヴォーカルの子は、僕より年下じゃないか!?」
ということでした。
マイケルはおそらく僕より遅く生まれた中で、
初めて世界的にビッグネームとなったアーティストと言えるでしょう。
改めて、早過ぎる・・・あまりに早過ぎる・・・
そう思わざるを得ません。


20世紀に入ってから登場した、世界的ビッグ・アーティストの流れを辿ると
 *ビング・クロスビー
 *フランク・シナトラ
 *エルヴィス・プレスリー
 *ビートルズ となります。
(実はその前にもう一人、アル・ジョルスンという人がいますが、
 今ではご存じの方は少ないでしょう)
そしてその後に続く人は???と考えると、
確かに多くのヒット曲を持つ人、人気のある人と色々浮かんで来るものの、
誰もが納得する決定打は「該当なし」と言うのが通説だったと思います。
しかし敢えてその位置に最も近い人を挙げるとすれば、
実はマイケル・ジャクソンだったのかも知れません。
無論色々な意見があるでしょうが、
一人のシンガー、一人の人間という概念を超えてしまった、
類まれなる存在として彼の名を挙げる事に同意する方は、
かなり多いのではないでしょうか?


で、冒頭のブライアン・ジョーンズとジム・モリソンの話に戻ります。
彼等が亡くなった69年や71年という年は、まだまだロックの歴史も浅く、
ビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がヒットした
1955年に始まったとされる(他にも諸説ありますが)ロックン・ロールは、
せいぜい十何歳といった年齢で、当然ミュージシャンの多くもまだ健在でした。
僕が洋楽を聴き始めてから、最初に遭遇したミュージシャンの死は、
67年12月10日に、飛行機事故の為に世を去った
オーティス・レディングだったと思います。
また70年にはジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンが相次いで亡くなった事は、
ロック好きな方ならきっとご存じのことでしょう。
しかし彼等はロックやソウルの歴史を語る上で、決して外す事の出来ない、
極めて重要なミュージシャン達であることは、疑いもない事実ですが、
当時まだ音楽歴の浅い中学生だった僕にとって、
必ずしも馴染み深い存在とは言えませんでした。
それに比較して、ブライアン・ジョーンズ在籍時のローリング・ストーンズ
ジム・モリソン在籍時のドアーズは、当時既にリアルタイムで随分聴いており、
この二人の死はかなりの衝撃だったのを覚えています。
二人について詳しく語れば、それぞれ何冊もの本が書けるほどになるでしょうが、
ビートルズの赤・青のベスト盤が出るまでは、僕のレコードの所有枚数は
ローリング・ストーンズの方がビートルズより多かったことや、
ラジオ番組のプレゼントでドアーズのベスト盤が当たった事などを思い出します。


音楽評論家としてまた洋楽DJとして非常に有名な八木誠さんが、
「洋楽ヒットチャート大事典」という、日本のチャート番組の資料と、
洋楽界の歴史の流れを集大成した、大変な力作を発表されましたが、
その中に物故ミュージシャン達のリストが掲載されています。
ソロアーティストのみならず、グループの一メンバーといった人達まで
実に詳細に調査された壮大なもので、初めて亡くなっていた事を知った人も多いです。
アーティスト本人は居なくなってしまっても、彼等の創り上げた作品や、
彼等のスピリットは未来永劫残って行く訳で、
それらを記録したレコード・CDといった音楽ソフトの持つ意義を、
ぜひ今一度思い出していただければと思います。
別に仕事柄という意味合いではなく、単なる一音楽ファンとして・・・