プロフィールUP

先日やっとプロフィールUPしました。
やっぱりこいつか!と思った方も、もしかしていたりして(笑)
結構ものものしく書いた部分もありますが、
実際大した事はやっちゃあいません。
でもこうやって自分のプロフィールをまとめてみると、
日々の生活の中ですっかり忘れていた事を
いろいろと想い出して来るもんですね。
通常音楽について語る場合、ロック的観点・フォーク的観点から
語られるケースが多いと思いますが、
僕に関しては、やや毛色が違うように感じています。
つまり僕の場合、学生時代にギターを弾いてフォークソングを歌ったり、
ロックのバンドを組んだりした経験が、殆ど有りません。
(社会人になってから、久留米時代にはバンドをやっていましたが)


では僕の音楽経歴はどこからスタートするかと言うと、
先ず5歳の頃から習っていたクラシック・ピアノです。
但しお世辞にも真面目な生徒だったとは言い難いですね。
  最近当時のピアノの先生の妹さん(その方もピアニストです)に
  ラジオ局の中でばったりお逢いする機会があり、
  それをきっかけに先生ご本人にも、約40年ぶりにお逢い出来ました。
  もういい年ブッ扱いた僕でも、先生にとってはまだ子供のままらしく、
  いきなりちゃん付けされましたけど。(笑)
そして小学6年の頃から、作詞・作曲を始めました。
まあ最初の頃は、当時流行っていたグループサウンズや、
フォーク・クルセダーズ等のコミックソングの真似程度でしたけどね。


そして中学3年の時に作った歌を、多重録音しました。
と言っても、先ずピアノを録音し、その再生音をスピーカーからマイクで拾いながら、
同時にドラム等の他の音を重ねて録音するという、極めて原始的なものでした。
この時に作った歌は、何と全編英語の曲で、
中学生の英語力で何とかでっち上げた、怪しげな歌詞が付いていました。
その曲をカセットに録音したものを、何とあろうことか
当時RKBラジオで「ペプシ・ポップス・タイム」「スマッシュ11」を
手がけられていた、あの井上悟さんにお聴かせしました。
要するに井上陽水さん(当時はアンドレ・カンドレ)と
同じ事をやっていた訳ですが、作品のレベルには雲泥の差があり、
その無謀さ加減、全くお恥ずかしい限りです。
今年の1月に開催された「スマッシュ11〜ファンの集い」で、
井上悟さんにご挨拶する機会があり、その後何度かお逢いしていますが、
なんと井上さんは40年近く前にお逢いしたきりの
僕の事を覚えていて下さいました。
(よっぽど変な奴だったのか、40年たっても顔が変わってないのか・・・)


高校に入ってからは、音楽部に所属しました。
主に合唱曲中心でしたが、文化祭やサマー・コンサートでは、
ポップスやフォークの曲を、コーラスにして歌ったり、
サウンド・オブ・ミュージック」等のミュージカルもやりました。
コーラス・アレンジやその際のピアノ・アレンジは殆ど僕の担当で、
ビートルズサイモンとガーファンクルビー・ジーズカーペンターズ
フィフス・ディメンションバート・バカラック等の曲を、
コード進行に従って、ソプラノ・アルト・テノール・バスの
四部に振り分ける形で、楽譜にまとめて行きました。
つまり今で言えば、ソフトロックやラウンジ・ミュージックといった
お洒落系の音楽に、限りなく近いものだったように思います。


そう言えばつい最近親しいラジオ仲間のあいだで、
山陰の土井ケ浜の話が出て、随分懐かしい想いをしたものですが、
実はこの土井ケ浜の海辺こそは、高校の音楽部の現役生+OBにより、
毎年夏休みにはキャンプに行っていた、その場所だったのです。
JR長門二見駅で降り、バスで岡林公民館へ向かい、
そこに広がる土井ケ浜の海辺は、当初はまだ誰にも知られていない
我々だけの秘密の場所でした。(今では余りにも開けてしまいましたが)
遙か彼方まで続く白い砂浜、
夕暮れ時にはまるで浜辺と島とを繋ぐ橋のように見える夕陽の影、
そして夜には宇宙の営みが一望出来るような満天の星空、
今でも目に浮かびますね。
高校から大学時代にかけても多くの曲を作り続けましたが、
その時期の曲の7〜8割は、この土井ケ浜の海辺が舞台になっています。


大学に入ってすぐには、軽音楽部に入ったこともありましたが、
音楽性が合わずにすぐ辞めてしまいました。
でも今にして思えば、当時のレパートリーの中には
セルジオ・メンデスキャロル・キングローラ・ニーロ等もあり、
部の先輩達が聴いていたのは、カーティス・メイフィールド
アイク&ティナ・ターナー等で、決して悪い趣味ではなかったのですが。
同級生達は、当時既にはっぴいえんど大滝詠一細野晴臣
そしてまだ有名になる前の荒井由実等を好んで聴いており、
考えてみるとおそろしく時代の最先端を行ってた連中ばかりだったんですね。
僕はと言えば、加山雄三とかグループサウンズとか、
結構その時期には忘れられていた人達をよく聴いていましたが、
その直後にはまさかのリバイバル・ブームが巻き起こります。
大学の授業では、ラジオ番組の制作実習なんてのもあり、
他の連中が結構ジャズとかソウルとかの番組を作りたがる中で、
僕は西郷輝彦の特集番組をやったりしました。
受け持っていただいた先生は、文化放送で1955年から放送されていた
日本におけるランキング番組の草分け「ユア・ヒット・パレード」の
初代パーソナリティ、茂木幹弘先生でした。
先生にはラジオの基礎実習、企画、制作から卒論にいたるまで、
ラジオに関する一通りのことを教えていただきました。
僕が現実にラジオの世界に足を踏み入れるようになった頃、
真っ先にその事を伝えたかったのが茂木先生であり、
松井伸一さんにお願いして先生のご消息を探していただきましたが、
結局情報をつかむ事は出来ませんでした。
実はその時点で、既に先生は亡くなられていた事を知ったのは、
かなり後になってからでした。
こんなとこが、学生時代までの僕の主な経歴です。
追加で思い出した事があったり、その後の経歴については
またそのうちに・・・という事で。