ビーチ・ボーイズ

ティーブ・ガットさんからご要望をいただいてました
ビーチ・ボーイズについて書いてみようと思います。
音楽的なことを突っ込んで行くと、どんどん難しくなりそうですが、
まあここではブログの性格上、ヒット・チャートでの成績や、
日本とアメリカのヒットの違いなどが主体となるでしょう。


全米チャートでの、
 初のランク入りは
  サーフィン(62年 75位)
 初のトップ40入りは
  サーフィン・サファリ(62年 14位)
 初のトップ10入りは
  サーフィンU.S.A(63年 3位)
 初のNo.1は
  アイ・ゲット・アラウンド(64年 1位2週)
特に「サーフィンU.S.A.」「アイ・ゲット・アラウンド」は
彼等の初期の代表曲として知られていますが、
意外にもこの2曲は、日本ではさほど大きなヒットになっていません。
20位内に入るのがやっとで、ベストテンには届かず、
といった番組が殆どだったようです。
では彼等の日本での最初の大ヒットは何か?
これまた意外にも、全米では65位止まりだった
「リトル・ホンダ」が日本での初ビッグ・ヒットです。
日本製ホンダのバイクの事を歌った曲で、
全米ではホンデルスのヴァージョンが9位まで上がりました。
  「リトル・ホンダ」と言えば、1974年に絶好調の中で来日、
  日本武道館でコンサートを行なったカーペンターズが、
  あの「イエスタディ・ワンス・モア」で始まるオールディーズ・メドレーで、
  本来ビーチ・ボーイズの「ファン・ファン・ファン」が歌われるべき所で、
  この「リトル・ホンダ」を歌っていました。
  おそらく日本のファンの為にということで、
  「リトル・ホンダ」に差し替えたものと思われます。
  ところがこの配慮が裏目に出てしまい、
  当時「リトル・ホンダ」は、日本ではすっかり忘れられた曲で、
  聴衆の反応はイマイチでした。
  むしろオリジナル通り「ファン・ファン・ファン」の方に
  しておいた方が良かったのではないか?と思ったりします。


1965〜66年頃には、彼等は絶好調でヒットを連発、
全米チャートでベスト3入りした曲を挙げてみると


 65年 ヘルプ・ミー・ロンダ(1位 2週)
    カリフォルニア・ガール(3位)   
 66年 バーバラ・アン(2位)
    スループ・ジョン・B(3位)
    グッド・バイブレーション(1位 1週)


この内「ヘルプ・ミー・ロンダ」「スループ・ジョン・B」
「グッド・バーブレーション」の3曲は、
「オール・ジャパン・ポップ20」の前身「9500万人のポピュラー・リクエスト」でも
見事No.1を獲得、日米共に大ヒット!ということになります。
アルバムでは今では大傑作と評価の高い「ペット・サウンズ」をリリース、
しかし当時はそれまでの路線を期待するファンからは
難解であると不評を買ったりした面もありました。
そして続くアルバムとして制作されていたのが、
ロック史上でも有名な幻のアルバム「スマイル」です。
もしこのアルバムが未完に終わることなく世に出ていたら、
今のビートルズビーチ・ボーイズの位置関係は
逆転していただろうと言われています。
つまり20世紀を代表する唯一無二のグループがビーチ・ボーイズで、
ビートルズはやや懐メロ的な甘酸っぱさを持って聴かれているとか・・・
それほどこの「スマイル」は画期的なトータル・アルバムとなっていた筈で、
未完に終わったのは、リーダーのブライアン・ウィルソンの体調、
精神状態が思わしくなく、制作が遅れていたのに輪をかけて、
ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が
トータル・アルバムとして、先に世に出てしまった事などがあるでしょう。


まあ「スマイル」については、何冊もの本が出ているほど、
詳しく研究されているので、こちらではこのくらいにしておいて、
本来この「スマイル」のハイライトを成す筈だった曲が「英雄と悪漢」です。
軽快なテンポに乗った曲ではありますが、途中で急にスローになったり、
複雑な構成を持ったかなり難解な曲という印象です。
結局、未完に終わった「スマイル」の替わりに世に出た
「スマイリー・スマイル」に収録され、シングル発売もされましたが、
全米チャートでは最高12位という中途半端な成績に終わりました。
なおこの曲は以前ご紹介した、KBC「今週のポピュラー・ベストテン」の
第1回のランキングの10位、すなわちカウントダウン形式の1曲目、
要するに同番組でのランキングに入った曲として、
しょっぱなにオンエアされたのがこの「英雄と悪漢」という事になります。
僕がビーチ・ボーイズという名前を初めて知ったのも、この時でした。


それからビーチ・ボーイズの人気は、急速に下降線を描いて行きます。
つまり全盛期のビーチ・ボーイズを一足違いで聴き損ねた僕は、
ビーチ・ボーイズの事を
「イギリスのビートルズに対する、アメリカでのリーダー的存在」
と言われても、ピンと来ませんでした。
1968年には、久々に初期の彼等を彷彿とさせる「恋のリバイバル
1969年には、ロネッツのカバー「アイ・キャン・ヒア・ミュージック」
がヒット曲として挙げられますが、全米チャートを見ても、
前者が20位、後者が24位と、今ひとつという印象は否めません。
唯一「オール・ジャパン・ポップ20」のみは、
前者が4位、後者が5位と健闘しましたが。


70年代に入って、作品としては意欲的なものを発表し続けたにもかかわらず、
チャート上での成績はいよいよ低迷、
すっかり忘れ去られた存在となりかけていました。
ところが1974年に異変が起きました。
彼等のベストアルバム「終わりなき夏」が全米アルバムチャートのNo.1に輝き、
「サーフィンU.S.A.」が再びチャート入りし、36位を記録しています。
この年には映画「アメリカン・グラフィティ」の成功により、
オールディーズに注目が集まるようになっていました。
更に74〜75年にかけて、ポール・アンカニール・セダカ、ボビー・ヴィントン、
フランキー・ヴァリフォー・シーズンズ、ライチャス・ブラザース等、
往年の名歌手・名グループの、カムバックや再結成が相次ぎました。
そしてこのビーチ・ボーイズも、1976年に「ロックン・ロール・ミュージック」が、
全米5位となんと9年ぶりのトップテン入りを果たしました。
以降80年代にかけても、そこそこのヒット・シングル、アルバムを発表し続けましたが、
1988年に映画「カクテル」の挿入歌として発表された「ココモ」が、
同年暮れに「グッド・バイブレーション」以来、22年ぶりの全米No.1を獲得。
アレサ・フランクリン(「リスペクト」〜「愛のおとずれ」の20年)を抜いて、
おそらくこの時点で最も長いインターバルをおいての
全米No.1獲得の記録を作ったと記憶しています。


取りあえず今回はこんなとこで。
もっと夏が本格的になった頃に、夏本番気分でまた追加を書くと思いますので。